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「『教育への権利』に関する特別報告官による声明」


『教育への権利』に関する特別報告官による声明
人権委員会(ジュネーブ)1999年3月22日ー4月30日
10 経済的、社会的及び文化的権利に関して

1999年4月8日

もくじ

※見出しは翻訳者がつけました

はじめに

人権をあらゆる政策にとけこませる
 私の提出した予備報告が1月には手に入るようになり、関心のある方に読んでいただいた上で、今日は気持ちよくお話できるだろうと期待しておりました。しかしながら、 国連事務局が準備に4ヶ月以上もかけたために、予備報告は、実際に記された日付より2ヶ月も後に、ようやく入手可能になりました。これは、特にほめたたえられるような新記録ではありませんが、一言触れておく価値はあるでしょう。

 人権委員会が、『教育への権利』に関する特別報告担当官を置く事を決定したのは、今、この時をおいてなかったといえましょう。といいますのも、今はまさに「経済的、社会的および文化的権利に関する委員会」から世界銀行に至るまでの機関が揃って、これからの教育はどうあるべきか、そのなかでそれぞれの機関はどのような役割を果たすべきかを模索しているところだからです。 人権と開発とが一つに結びついて、「人権を基礎においた開発」として、どんどん受け入れられつつあります。それは、たとえば、ユニセフが『教育への権利』に関わるようになったことや、CEPAL(ラテンアメリカ・カリブ海諸国経済委員会)が、子どもの人権を活動内容に含めたことに、あらわれています。

 こうした動きの大きな成果としては、最近、とくに中東で、教育における男女格差が減少してきていることがあげられます。男女差別を根絶することは、教育と人権の両分野にまたがる目的ですが、同時に指標としても使われます。こうして、人権の見地からの取り組みが、国際的な教育実施計画に活気を与え得ること、そしてそれはどのような文化のもとでもみごとに実践できるものであることが、あきらかになってきたのです。
 “メインストリーミング”(注1)という言葉を「あらゆる政策にとけこませる」という意味に発展させて、人権をあらゆる政策にとけこませる道を開いてきたのは、ジェンダー(社会における男女の役割を見なおすこと)の分野が最初でした。ですから、「女性の権利」が国の開発に人権をとけこませることのさきがけになるのも、当然のことです。 教育がその推進役となるでしょう。

I.「教育への権利」に関する現状―国際連合の組織の中でなされていること

国際的な資金援助に関して
 この20年であきらかになってきたのは、政府の人権尊重義務に関して、二つのレベルで論じる必要があるということです。一つは、今までどおり、個々の国家のレベルですが、もう一つは、各国政府が集まって機能する国際機関のレベルです。

 従来は、個々の政府がいわゆる政治的意思を表明しさえすれば、人権尊重義務を果たす事ができると考えられていました。しかし、1980年代の混乱の中で、多くの発展途上国においては、『教育への権利』をただの夢から実際の権利にしていくのに、政府に政治的な意思があるだけでは、とても十分とはいえないことがあきらかになりました。
 1980年代に就学率が低下したため、1990年代初頭には、危機感に駆り立てられてさまざまな改革が行われました。しかしまた、就学率が低下したことは、国際的な開発資金援助機関の政策に、人権という視点を導入するよいきっかけともなりました。
 もちろん、私は、ここで、対外債務や、構造的調整や、絶対的貧困などに対して、個々の専門家が行ってきたことを繰り返そうとは思いません。私は、教育における人権という面に限って述べていきます。

 『教育への権利』を実現することに伴う各国政府の責務を全うできるように、国際機関や他国から資金援助が行われています。 私は、こうした国際的な援助を1999年の研究のテーマの一つに選び、深く掘り下げることにしました。
 1990年にタイのジョムチエンで開かれたジョムチエン会議は、10年前に始まった危機感に駆り立てられた改革の象徴です。この会議で、100カ国以上の政府が奮い立ち、「すべての人に教育を」という教育実施計画を練り上げました。その半数は、計画の実施のために国際的な財政支援を受けることになりました。
 しかしながら、国際機関や他国からの援助は、各国の教育予算の3パーセントにすぎません。また、この援助は、助成金供与ではなく、借款であったので、各国政府が無償の初等教育を保障するためには、ほとんど役に立たなかったと言ってもよいでしょう。 ですから、今後の経過報告では、教育に対する国際援助が、人権の面で各国政府にどのような影響を与えたかを分析しようと思っております。

人権に基礎を置いた用語を
 人によって教育のあるべき姿の像がさまざまなことを反映して、教育について語られる言葉も、多種多様なものとなっています。用語も、その基にある概念も、必ずしも人権に基礎を置いたものというわけではありません。教育は、個人の稼ぐ能力を高める方法とみなされたり、女性の出産率を低下させる手段とみなされることがあります。先住民やマイノリティの視点からは、教育が抑圧を意味することもあります。

 国際人権法は、教育の目的を規定し、教育のすべての過程に人権をとけこませることを求めています。人権の見地からすれば、教育は他の目的を達成するための単なる手段ではなく、それ自体が最終目的となるものです。

 経済学者が、教育を、人的資財の効率的な生産手段とみなし、人権を教育の外側にあるものと規定するならば、その結果生じる「資財としての人間」というイメージは、あきらかに「権利の主体としての人間」というイメージと衝突します(注2)
 人権委員会が『教育への権利』に焦点を当てたことは、教育の分野に人権に基づく見方を取り入れ、人権を基礎とする開発を促進するための、よい刺激となりました。

人権基準の中核にある自由の尊重
 教育の分野では、学齢期にあるすべての子どもを学校に通学させ、義務教育で規定された最低基準を満たすまで学校に留め置く(注3)ということが、決まりきったように目標とされてきました。しかし、この目標は、必ずしも人権が求めるものと一致しません。
 学齢期にあるすべての子どもが、無償で、義務教育の全期間を通して学校の中にいるというような国でも、『教育への権利』が否定され、侵害されているということはありえます。

 教育に関する人権基準の中核には、自由の尊重があります。教育がどうあるべきかということに関する親自身の考えに基づいて自分の子どもを教育する親の自由は、国際人権基準が誕生したそもそもの最初から一貫して謳われてきたことです。

『教育への権利』は法廷で用いられている
 人権教育への取り組みが盛んになるにつれて、教育課程や教科書の内容の評価を、人権の観点からするべきだという考え方が、徐々に広まりつつあります。
 私は、ここしばらく、『教育への権利』のあらゆる面に関わる、各国のさまざまに異なる法制を収集し、分析することを研究の最優先事項としてまいりました。その結果、『教育への権利』が法的強制力を持ち得るものであるかどうかについて云々すること自体、すでに時代遅れであることがあきらかになりました。
 『教育への権利』は法廷で争うことが可能である、というどころではなく、実際に法廷で用いられているのです。さらに重要なのは、『教育への権利』の性質と目的を解釈する上で、国際人権法が重要な指針となっていることが、各国のさまざまな法制からあきらかになったことです。

義務教育と『教育への権利』
 『教育への権利』が言われるようになるより少なくとも一世紀前から、国家は教育に関わってきました。義務教育の存在がその証拠となります。 しかしながら、義務教育が存在するということは、『教育への権利』のたったひとつの要素が実現したことを示しているにすぎません。どのような教育を選択するかという親の自由が認められていなければ、学校教育は、教育というよりは洗脳に等しいものとなってしまうからです。

 国際人権法では、初等教育はフリー(無償)でなくてはならない、とされています(注4)。しかし、たとえば、初等教育が強制的なもので、授業料や教材費などの代金と引き換えに、国家が経営する画一的な学校システムのもとで与えられ、そこから抜け出すことを選ぶ自由がないものであるとしましょう(注5)。そのような場合には、教育は「フリー(自由、無償などを意味する)」という言葉の持つどのような意味にもあてはまらないものとなります。『教育への権利』は、実現されるどころではなく、否定されてしまうのです。

人権の手を教育の分野へ
 人権を教育の分野に取り入れることは、1990年代になってようやく始まりました。ユネスコや、ユニセフのような、教育にかかわる国際機関との協力は、教育にとっても人権にとっても大きな利益をもたらすことでしょう。
「教育」から『教育への権利』へと人々の考え方を変えていくためには、たいへんな努力が必要です。私はこの分野でのユニセフの先駆的な役割を強調したいと思います。

 さらにもう一つ付け加えたいことがあります。教育の分野では、教育の中の人権にかかわる面を理解し、教育に人権の視点を取り入れていくために、多くのことがなされてきているのですが、人権の分野の方では、現行の人権基準をどのように教育に適用していくべきかをあきらかにする動きがあまり進んでいないのです。昨年から、委員会は、この不均衡を減らすよう、動き始めました。国際的にも、それぞれの国の中でも、人権の手がますます教育の分野にまで伸びることを、私は望んでいます。

統計の問題点
 現在手に入る教育に関する統計を見ると、教育の分野での方向性や優先順位がよくわかります。
 調査されているのは、識字率、教育への公共投資、就学率などです。一方、調査されていないのは、単なる識字率を超えた教育の達成度や教育費の個人負担、そして、教育に関する統計に含まれない子どもたちの運命です。 出生時に登録されず、法的にも統計的にも存在していない子どもたちがいったいどのくらいいるのかを、私たちはまったく知りません。
 就学に関する統計を見ても、学校にいる子どもの数(少なくとも、学年の始まった時に登録されていた数)はわかりますが、学校にいるべきなのにいない子どもの数はわかりません。

 逆相関の鉄則が、ほんとうに必要なことに関する基本的なデータから、私たちを遠ざけているのです。出生時に登録されず、公的な人口調査でも数に入れられない多くの子どもたちは、国際機関がなんともすばらしい能力で数を推定してしまうために、かえって存在を隠されてしまうのです。このような推定をすると、おおよその数がわかり、問題の大きさは示されるのですが、問題の原因がわからなくなります。
 人権の観点からの本質的な疑問は、こうした子どもたちは単に調査からもれただけなのか、それとも実際に教育から締め出されているのか、ということなのです。

差別の禁止と男女格差の是正
 差別の禁止の原則は、男女格差の問題を突破口に教育の分野にも導入されました。教育におけるさまざまな男女の格差は、たとえば在籍する生徒の数が性別によって大きく違うことにはっきり現れていますが、こうした格差を是正するために、多くの変革が必要なことがあきらかになっています(注6)。課題はたいへん大きなものですが、教育における「男女格差の是正」に向けた取り組みの広がりと速さは、印象的なものでした。

統計から11歳から14歳までの子どもが抜け落ちている
 よく知られていることですが、各種の国際的な統計は、必ずしも18歳までを子どもとする、という定義に従っていません。

 教育を始める年齢は、早い国では2歳、遅い国では7歳です。義務教育の期間も、3年という国から12年という国まで、さまざまです。ところが、基礎教育についての統計の対象範囲は、6歳から10歳までとなっています。また、識字率の統計は、15歳以上の人を対象にしています。11歳から14歳までの子どもたちは、教育に関する統計からもれてしまっています。さらに、労働力の統計も、彼らを15歳からしか捉えていません。

 これでは、たとえ11歳の子どもが教育から見放されていたとしても、その子どもがいかなる統計にもあらわれないので、子どもの権利条約はその子を支えることができません。11歳の子どもたちが路上や畑で働いていること、できることは何でもして収入を得ていることは、合法だの非合法だのという違いを単なる言葉の遊びにし、人権に関する論議を偽善的なものにしています。

II. 『教育への権利』を実現するための国家の責務

国家のしなければならないことは複雑
 『教育への権利』の完全な実現へ向けて、総合的な実施計画を作り上げることが必要です。実は、これは、もっとずっと前になされるべきことでした。
政府としての仕事は、教育の基本計画を作り、満たすべき最低限の基準を設けてそれを守らせ、永続的に実情を調査し、必要ならば、いつでもどこでも是正する措置をとることです(注7)。これは一国の政府だけで行う場合も、いくつかの政府が協力して行う場合もあります。こうした仕事は、世界的に認められています。

  『教育への権利』に関する政府の責務はたいへん複雑なものです。その責務を描写するために、私は予備報告において初等教育について調査をし、「4つのA」(Available, Accessible, Acceptable and Adaptable の頭文字を指す)にまとめました。教育は、誰にでも利用できて(Available)、誰をも閉め出さず(Accessible)、誰にでも受け入れられ(Acceptable)、柔軟なもの(Adaptable)でなくてはなりません。

誰でも利用できるように(Available)
 国家の第一の責務は、すべての子どもが小学校を利用できる( Available )よう保障することです。国家だけが教育に投資しているわけではありませんが、国際人権法は、学齢期にあるすべての子どもが小学校を利用できるようにするため、国が教育とその社会環境への投資(交通、電気、水道等)をやりとげることを義務づけています。人々も若く国も若いアフリカのような大陸にとって、これまでの国際的援助がこの責務を果たすためには不適切なものであったことがよく知られています。

無償教育とは、国家が教育を提供することではない
 初等教育を無償にする、という国家の責務を実施することは、往々にして国家が初等教育を提供することと結びつけられていますが、これは正しくありません。多くの国は、多様性を認めて、さまざまな小学校に補助金を出すことで、初等教育を無償にするという責務を果たしています。
公立学校だけしかなかったり、あるいは私立学校だけしかないという国はごくわずかです。ほとんどの国には、公立学校も私立学校も両方あります。

 ところで、『私立』という言葉が意味するものはさまざまです。もっとも広い意味では、国によって運営されていないすべての学校を含みます。実際に私立学校の中には、資金の一部を国に出してもらっているところもありますし、全面的に国にお金を出してもらっているところさえあります。
 『私立』という言葉の裏には、それらの学校が利益を目的としているという意味が想定されていますが、実は、多くの私立学校は利益目的ではありません。『私立』という言葉は、正式な教育にも正式でない教育にも、宗教的な学校にも宗教色のない学校にも、少数民族の学校にも先住民族の学校にも、そして特別なニーズのある子供たちのための学校にも、使われます。

 私は、最初の調査で、この公立・私立という二分法では、多くの国の現実を捉えられないことを確認しました。
 これらの私立学校の例に見られるように、教育において、創意工夫に富んだ実践が、理論よりはるかに先を行っています。これは、教育の未来にとって幸運なことです。

国家の役割についての議論
 特に、教育における国家の役割に関して、異なった教育観が鋭く対立しています。教育システムすべてを国家が資金を出して運営すべきだという主張から、教育を提供するのに国家のいかなる役割も要らないとする主張まで、さまざまな主張がなされています。これもまた幸運なことに、この対立は、理論では際立っていますが、実践ではそれほどでもないのです。

 実際には、国内の憲法裁判所や最高裁判所が『教育への権利』を解釈する際に、教育における国家の役割に言及する場合が増えています。世界銀行のような国際的な機関が、国が教育クーポンを提供し、親が自分の選択した学校に子供をやれるようにすることを想定しています。国内の憲法判断をする裁判所は、このような選択肢を、国が教育を公共サービスとして提供する義務にそぐわないとして、とがめるかもしれません。しかし、このようにして、法廷で決着がつけられるとは最近まで思われていなかった領域でさえ、『教育への権利』への理解が得られてきているのです。

誰も閉め出されないように(Accessible)
 第二に、国家は、誰もが利用できる公立の学校から閉め出される者がいない( Accessible ) ように保障する責務があります。差別の禁止はすでに存在していますが、それにそって公立学校を運営することがとくに大事です。

  差別をしないことは、国際人権法では他のすべてに優先する原則です。市民的及び政治的権利(国際人権B規約)、と経済的、社会的及び文化的権利(国際人権A規約)のどちらもこの原則にのっとっています。子供の権利条約も、この二つの人権領域にまたがるものであり、差別をしないという原則にのっとっています。差別をしないことは、だんだん実現されればいいということではなく、今すぐに、完全に実現されなければならないことです。

 各国のさまざまな実例を見ると、子どもを学校から排除することが、『教育への権利』を否定することと同じ意味を持つようになっています。世界中で、生徒の妊娠や同性愛が排除の理由になるかどうかの訴訟が、毎日のように起こっています。

誰にでも受け入れられるように(Acceptable)
 国家は、国家が決めてきた教育の最低基準を、すべての学校が満たしているように保障すると同じように、教育が、親と子のどちらにとっても受け入れられる ( Acceptable ) ように保障する義務があります。

 先住民族や少数民族を認め、敬意を払わないならば、教育は「異質である権利」を否定することになります。親は、自らの宗教的、道義的、哲学的な信条に合わせて子どもが教育されるようにする自由があります。その自由を尊重することは、すべての人権条約にはっきり記されていますし、裁判を通じて常に確かめられています。

しつけ方の制限
 子どもの尊厳を侮辱やおとしめから守るために、学校での子どもに対するしつけ方を制限することが、この数十年でかなり増えてきました。こうした制限について多くの議論が巻き起こっています。この点に関する議論はまだまだ続きそうです。
  人権規範の背後にある「子どもをどのように取り扱うかが、その子がどのような大人になるかを形作る」という考え方が、『教育への権利』を実現する道のりを後押ししているのです。

学校での言語の問題
 学校でのしつけと同じように、教育に使われる言語に関しても人権規範はまだ未熟な状態です。自分にはなじみのない言葉(例:外国語や公用語)の中で教育を受け始め、終えていく人たちがいったいどれくらいいるのか、私たちにはわかりません。
 子どもたちが学校から落ちこぼれていくことと、なじみのない言語が授業に使われることには相関関係があると、私たちは考えています。私たちが「落ちこぼれ(ドロップアウト)」と呼んでいるものは、「押し出され(プッシュアウト)」と呼んだ方が適切でしょう。子どもたちは、なじみのない言葉で行われるわけのわからないカリキュラムによって、学校から追い出されるのです。

柔軟である(Adaptable)ように
 子どもを「将来の大人」として見る視点から、学習内容や教育課程を検討することがお決まりのようになっています。しかし、子どもの権利条約は、子どもの最善の利益が優先するように求めています。それぞれの子どもにとっての最善の利益を選び取るようにするならば、教育システムを柔軟なもの( Adaptable )に変え、また、常に柔軟であり続けるようにする必要が浮き彫りにされます。

 資本、情報、貿易などの地球規模化(グローバリゼーション)と、地域のニーズに応え、民族、言語、宗教などの独自性を認める(ローカリゼーション)というあい反する圧力が教育に働いています。そのため、教育を柔軟なものにする必要は高まっています。子どもの目の前にある地域社会の現実と、急速に変化しつつある世界規模の現実の両方に、教育が対応できるようにするためです。

国別調査を開始
 この「四つのA」(Available, Accessible, Acceptable and Adaptable)は、権利に基づいた教育への調査に着手する際に、分析の道具になりました。
 人権委員会が初等教育を優先させるように決めたので、私はそれに従い、予備報告では初等教育だけを扱いました。私は今後の経過報告を、中等教育と高等教育にも拡げようと計画しています。そして、もし、人権委員会が望むなら、就学前教育も含める計画です。
 私は、個別の国を調査する準備を始めました。国内レベルでの問題とその解決策を具体的に調べることが、世界的なレベルでの『教育への権利』を描き出すのに、大いに役立つと知ったからです。私の関心の焦点は、「教育への権利」を押し進めるにあたっての諸問題の解決策にありましたし、これからもそうでしょう。

III. 終わりに

「教育」と『教育への権利』のへだたり
 世紀も千年紀も区切りがつく前の、これが人権委員会の最後の会合です。2000年はすぐそこまできています。2000年までに達成するはずだったたすべての実施計画は、過去のものとなるでしょう。それと同様に、現実の教育と「教育への権利」のあいだにある大きなへだたりも過去のものとなることを、私は望んでいます。この大きなへだたりに橋をかけることには、大きな困難があります。国際的な方針がまだできていない領域で、その困難をよく見て取ることができます。

 そのためには、二つの論点を取り上げるだけで充分でしょう。どちらもこの五ヶ月の間に私の注意を引いたものであり、世界の隅々の組織と個人が国連に『教育への権利』で対応してほしいと望んでいることが、広いものにわたることを伝えています。

教育のおよぼす力
 一つは、教育が人道的救援物資にはなっていないことです。教育は、標準的な「救急セット」からは除外されてしまっています。救急セットはサバイバルの品(食料、水、医薬品)に限られています。

 もう一つは、教育なしには平和を創り出すのは不可能だという当たり前の事に示されています。その理由はいろいろあるでしょうが、今兵隊でいる人たち、そして将来兵隊になる人たちに、他の生活の手段を与えるには教育が鍵となることだけでも、十分な理由です。彼らのほとんどは、男か少年です。 ジェンダーについて考えるとき、ジェンダーとは、社会的に作られた男と女の役割のことだという前提をもとに考えることが多いのですが、その際に、私たちは、ジェンダーの問題は女性だけでなく、この兵士たちの例のように男性にも同じようにあるのだ、ということをしばしば忘れがちになります。
ここでも、教育が理解を深めるための推進役となっていくでしょう。

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翻訳:
   伊藤 美好 miyoshi@itoh.org
   古山 明男 akiofrym@sag.bekkoame.ne.jp
(2000.11.24)
(2000.12.18最終改訂)
*読みやすい訳にするために、予備報告などを参考にして、語句を補った部分もあります。訳に疑問を持たれたり、間違いに気づかれた方は、翻訳者までお知らせいただければ幸いです。
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