親と子の関係性について思うこと


『解かりあえる』という誤解

昨年の5月に上福岡市で、いわゆる不登校を考える会『スペース・ルークス』を立上げてから、新たに幾人もの方々との出会いがあった。「自分の子どもが学校に行かないという事を、頭では解かっていてもどうしても在りのままを受け入れられない。 親として、それでいいのかという迷いから脱することが出来ない。」 という苦しい胸のうちを語る多くの声。 実は私自身が不登校経験者であることから、「井上さんは経験者だけど、私は経験したことがないから解からないんだと思う。」 そうなのかな。 だとしたら経験者は、皆子どもを在りのまま受け入れることが出来て、未経験者はできないかといえば、どうもそうではない。私にしてもどこまで子どもを理解しているのかと問われれば、「解からないよ、だって子どもと私は違う人間なんだもの。」と答えるしかない。 むしろ、解からないそのままの子どもとつきあっているのであって、解かりあえると思うことに大きな誤解があるように思う。


「いくつになっても親子してる」

最近になって自分(子どもから見て母親)とその母親(子どもから見て祖母)の関係に触れたこんな声と接するようになった。 「お祖母ちゃんが、孫のことを心配して色々電話を掛けてくる。 その時、『アンタのこんな育て方が悪い』とか、『そんなことじゃだめじゃない、こうしなくちゃ』と言われて、あー、私とこの人はまだ親子をやっている。 昔からずっとこうだった。 もう私に押し入ってこないで。 一人の人間として認めて…。 そう感じた瞬間、はっとした。 自分自身が子どもに何をしているのかが解かった。」 別の方は又「自分の母親の存在を重たいと感じたときから、それでは我が子と自分の関係はどうだろうと考えた。肉親であるがゆえに、見えなくなってしまう部分があるのではないか、我が子の訴えに対して、もしこれがよそのお子さんだったら私は何と答えるだろうと一呼吸置くように努力した。」


私と母の関係性

こんな声に触れ、自分と母の関係性を考えた。 私は生母とは早くに死に別れ、6才の時、後妻として入ってきたのが今『母』として私の感覚にある人である。彼女は私と接するとき『自分はこんな嫌な思いをしたから子どもを同じ目に逢わせたくない。』 あるいは『自分はこうしてとても良かったのだから我が子にも同じ道を。』 といういわゆる『親として我が子をこうしたい』というものを突き付けては来なかった。 『あなたはいったいどういう子なの?  何が好き? 何が嫌い?』 という問いかけから、私達は始まったような気がする。 その関係性は、7年前に母が他界するときまで概ね変わらなかった。 考えてみると、結果として母は私を一つの人格として扱ってきてくれたようである。 私が不登校を決め込んだときにもそれは変わらず、父からは「本当の母親ではないから、娘の進路に対してそんなに冷たくいられるのだ。」 と責められたようだったが、母は「パパからは、そう言われるけど、何もあなたがあなたでなくなるわけじゃナシねえ。」 私もそれに対し「そうそう」などと、夜が更けるまで二人で語り合った時間は、今考えても実に密度の濃いものだった。 母から浸食されるという感覚を味わったことがないのだ。

だからよかった、とか、悪かったのだ、というのではなく、わたしはそうだったのだ。 私はそれしか知らないのであって、逆に実の母と子の関係性を、自分が子どもの立場で味わったことがないのである。


『別の人格を持った存在』という体感

その私が、では自分の生んだ子ども達に対してどうだったかというと、これはもう母親の業とでもいうのか、すっかり自分と同一視していたのだ。 それを子どもが不登校という形でメッセージを送ってきた。 「お母さん。僕はあなたではありません。 僕は一個の人格を持つ人間です。 忘れてはいませんか」 私が、比較的短い時間で子どもの不登校という事態を受け入れることが出来たとすれば、それは母との関係性の中で、親と子が別の人格を持った存在としての付き合いというものを体感していたせいかもしれない。

人によって、その体感を得る時期は違っているのだろう。ある人は12才で、又ある人は15才で。 恋愛をきっかけにということもあるだろう。 一生体感しないままに終わる場合も少なくないかもしれない。


『個人』として立つこと

自分自身が一つの人格を持った『個』としての存在なのだという自覚は、自らの内から湧き出る痛み・悲しみ・喜び・苦しみ・疑問をはっきりと知覚するということだと思う。 もしも、個々の感情・感覚よりも『人並』『普通』の感覚(仮にそんなものが在るとすれば)が優先されるとしたら、人が生まれたときからそれをたたき込まれるとすれば、その人は『自分』を失うのではないか。 失った『自分』という存在が在ることすら知らないのだから。

今、様々な事件が取り沙汰され、「子どもをどうするか」という視点で私達は考えがちだが、親自身が『個人』として立たなければ、どうしてそれを子どもに見せてやれるのだろう。 子どもを追いつめているシステムの中で、それを云々することと同時に私達がやるべきことは、そのシステムから降りること。 本当に大切なことを自ら取り戻すこと、取り戻すための新たなシステムに頼るのではなく、自らその状況を作り出すことではないだろうか。

『人並み』『普通』を後生大事に生きている限り、いかなる素晴らしいシステムができようともそれはただの『縛り』でしかない。システムで人は『自立』しないのだから。


井 上 祐 子(いのうえ ひろこ)

1997年12月


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