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世界人権宣言第26条の「翻訳」をめぐって


 大阪府藤井寺市の人権啓発室が、広報に掲載した「世界人権宣言」の翻訳にたいして疑問を持った方がありました。藤井寺にお住まいの里中和子さんをはじめとする、数人のお母さん方と子どもたちでした。里中さんたちは、その疑問を藤井寺市と、翻訳の出所であったアムネスティ・インターナショナルの大阪事務所に向けて率直に発信しました。
 その結果は、里中さんたちの予想をはるかに上回りました。藤井寺市、アムネスティ、そして翻訳者の篁(たかむら)さんがもう一度、人権宣言第26条について見なおし、引いては人権とは何かということをあらためて取り上げることへとつながっていきました。 26条については、篁さんと、里中さんたちが協同で新たなものを作り上げ、差し替えることとなりました。

 里中さんたちがその時のことを記録した小冊子「世界人権宣言−第26条の『翻訳』をめぐって-」から抜粋し、ここに掲載させていただきます。

尚、この小冊子をご希望の方は、Io までお問い合わせください。




世界人権宣言
第26条の「翻訳」をめぐって




 1998年は、世界人権宣言ができて50年ということで、自治体その他がさまざまな啓発活動を行なった。藤井寺市でも、1991年にアムネスティインターナショナル日本支部が行なった翻訳コンテストで優秀賞に選ばれた篁(たかむら)久美子さんの作品を、4月〜12月にかけて『広報ふじいでら』に掲載した。この連載の中で、「義務教育」について定めた第26条は次のようなものであった。



世界人権宣言五十周年
ぼくたち わたしたちの
名訳 世界人権宣言 -その7-


とかく、むつかしく翻訳された国際文書。今年は「世界人権宣言」50周年というけれど、いったいどんなことが書いてあるのやら?そこで”だれにでも、わかりやすく”と訳された「世界人権宣言」を、シリーズで紹介します。今回は、第24条から第26条までを見ていきましょう。



(第二十六条)
1)
 すべての人は教育を受ける権利がある。
”ええ? いらないよ。勉強する権利なんて”
と言っている君。
ぜいたくなこと言わないで
よく聴いて。

日本では 小学校六年間 中学校三年間が 
義務教育 -受けなければいけない教育−だ。
この九年間で 
いったいどんなにたくさんのことを 
ただで 教えてもらっているか
よく考えてみようよ。
算数 国語 社会 理科…。
どれをとっても
大人になっていくために
大人になってからも
とても役に立つことばかりつまっている。
だから”いらないよ”
なんて 言わないで。
 
2)
 世界中には 子供がいっぱいいる。
でも 家の仕事 たとえば
ずっと遠くまで歩いて水くみに行くとか
荒地で畑をたがやすお手伝いとか
たくさんの家畜の世話で
疲れてしまったり
時間やお金がなかったりして
勉強したくてもできない子がいっぱいいる。
だから
その子の分も一生けん命勉強して
その子たちのために いつかは
役に立つことをできるといいね。
世の中を良くするために
平和を守るために
今はいろんなことを
いっぱい学びたいね。

そして もっと勉強したい人は
もっと好きなだけ 好きなことを学べばいい
君にはそういう権利がある。

3)
 君が子供の間は
”どんな勉強をすればいいかしら”と
お父さんやお母さんに
よくきいてみるといい

きっと 相談にのってくれるよ。




*この作品は、1991年にアムネスティ・インターナショナル日本支部が「世界権宣言をやさしく理解」するために、翻訳コンテストを行った中で、優秀賞に輝い篁久美子(たかむら・くみこ)さんの作品です。

問合先
自治推進課人権啓発室

1998年10月号広報ふじいでら No.353より




 私は、この翻訳に強い違和感を持ち、図書館で宣言の原文などを調べた。原文と六法全書の直訳は、次のようになっている。



Article 26
(1)
Everyone has the right to education. Education shall be free, at least in the elementary and fundamental
stages. Elementary education shall be compulsory. Technical and professional

education shall be made generally available and higher education shall be equally accessible to all on the basis of merit.

(2)
Education shall be directed to the full development of the human personality and to the strengthening of respect for human rights and fundamental freedoms. It shall promote understanding, tolerance and friendship
among all nations, racial or religious groups, and shall further theactivities of the United Nations for the maintenance of peace.

(3)
Parents have aprior right to choose the kind of education that shall be given to their children.

             (1948年制定  世界人権宣言より)



第26条
1)
人はすべて、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等且つ基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的てあることを要する。技術教育および職業教育は、広く一般がこれを受けることができ、また、高等教育は、能力成績本位ですべての者に均等に開放されていなければならない。
2)
教育は、人格の完全な発達と人権及び基本的自由の尊重の強化とを目標としなければならない。教育は、すべての国及び人種的又は宗教的団体の間に理解と寛容と友好関係とを増進するとともに、平和の確保のための国際連合の活動を促進しなければならない。
3)
親は、その子供の施さるべき教育の種類を選択するについて優先的の権利を有する。

             (六法全書より)




 これを元に、藤井寺市適応指導教室「ウイング」の親の会、学校に行かない子と親の会(大阪)、サークル「はちみつころりん」の仲間たちとも話し合った。中には、この訳文を読んで、涙を流した14歳の女の子もいた。この文章の内容は、けっこう、広く一般に受け入れられている感覚であり、そのことが、学校や家庭、子どもたち、親たちを息苦しくさせている要因のひとつでもある。だからこそ、これはこのまま見過ごすことはできないと思った。
 10月19日に藤井寺市の人権啓発室へ、また10月27日にアムネスティ大阪事務所へ、登校拒否を考える全国ネットワークの作ったカウンターレポート、義務教育に関する弁護士の見解などの資料を添えて、次のような意見書・質問書を出しに行った。




藤井寺市の広報に、アムネスティ・インターナショナル日本支部の世界人権宣言翻訳コンテスト優秀賞の作品が掲載されています。その第26条は、今、不登校をしている子どもたちや学校に行きづらい思いをしている子どもたちにとって、人権侵害とも言える内容となっています。
 第一に、7行目『義務教育−受けなければいけない教育−だ。』については、明らかにまちがった解釈です。世界人権宣言の本文の中に「Elementary education shall be compulsory.」という文がありますが、日本における義務教育の「義務」とは、国や保護者の義務であり、決して、子どもたちが「受けなければならない」義務ではありません。子どもたちにあるのは、教育を受ける権利です。この一文は、不登校をしている子どもたちを傷つけるだけでなく、行きづらい思いをしながら悩んでいる子どもたちを苦しめ、追いつめる事にもなりかねません。
 第二に、10行目で『ただで 教えてもらっている』というのは、とてもおしつけがましい表現であり、子どもたちに対して威圧的なものを感じます。憲法第26条や教育基本法第4条で保障されている「子どもは、義務教育を無償で受ける権利がある」という考えとは全く違います。 第三に、この作品が、アムネスティ・インターナショナル日本支部の選んだ作品であるという事です。この団体が日常的に人権擁護の立場で活動されている事はよく知られていますし、その信頼も厚いと思います。それだけにこの作品の中の一文も正当化されてしまいます。私たちはその影響の大きさを危惧いたします。



結果として

 藤井寺市は、私たちの申し出に誠実に対応してくれた。そして、連載最終の12月号広報では、まるまる1ページをさいて、「『名訳 世界人権宣言』編集考記 気づきこそが大切」と題する文章を掲げ、「あるお母さんからの指摘」という見出しで、私たちの主張もていねいに紹介している。




『名訳 世界人権宣言』編集考記
気づきこそが大切

 『名訳・世界人権宣言』を今年の四月からシリーズで掲載してきました。「今年は世界人権宣言五十周年というけれど、いったいどんなことが書いてあるのやら?」と、多くの人が思っておられるに違いないと推察し、<だれにでも、わかりやすくをテーマに、篁(たかむら)さんが訳された「世界人権宣言」を紹介してきました。これは篁さん自身が、自分の感性により「世界人権宣言」を意訳されたもので、これをきっかけに、一人でも多くのかたにその条文のひとつひとつを自分の言葉で理解してもらおう、<人権>というものをもっと身近に、自分のこととして考えてもらおうというねらいがあったのでした。案の定といえば失礼ながら、広報紙に掲載してから大きな反響がありました。「改めて世界人権宣言を勉強したいと思った」という学生さん、「これを教材に使いたい」という学校の先生、「子どもと一緒に読んでみます」というお母さんなど、多くのかたからのお問い合わせ、ご意見などを頂戴しました。

あるお母さんからの指摘
 その中で、不登校の子どもを持つお母さんがたからはこういう指摘をいただきました。それは、十月号に掲載の第二十六条〈義務教育〉に関するものです。篁さんの訳では義務教育を「受けなければならない教育」としたうえで、小・中学校での学習の大切さを言われていましたが、義務教育の〈義務〉は親や国・自治体にあるのであって、子どもが学校に行く義務を意味していないというものです。「不登校の子どもたちは、学校へ行かなければと言いながら心と身体がいうことを聞かず、行けなくなるのが通例です。私の子どもはこの文章を見て、”学校に行ける子はいいよね…”と言って、涙を流していたんです。」この文章によって、ただで義務教育を用意しているのに学校へ行かないのは、なまけているんだというようなイメージを植え付けられ、ひいては不登校の子どもたちに対する地域社会の偏見・誤解を助長する可能性が大きいというものです。
 確かに、日本国憲法、教育基本法で言う〈義務教育〉とは子どものために、親の経済力などで差別されず、平等に普通教育を補償しようとする制度であります。だから子どもには教育に対する権利(学ぶ権利)があるのであって、〈義務〉は大人が子どもに対して負担しているものです。義務教育が子どもの学ぶ権利を保障するためのものなら、その教育内容もひとりひとりの子どもにあったものでなければならないのですが、現実には画一的な教育を与えることにより、落ちこぼしやいじめ、不登校という問題がでてきているのが現状です。 しかし、〈義務〉という言葉の解釈もさることながら、人権の啓発を目的としたこの文章により、苦しい葛藤の中にいる不登校の子どもの、心の傷を広げる結果となったとするならば、それはわたしたちの本意ではないということをまず申し上げなければなりません。しかし、不登校の現実、その子どもたちや親の気持ちを深く理解しようとしていたかというと、十分ではなかったと認めざるをえません。
 そこで〈人権〉というものをもう一度考えてみるのです。英語で言えばヒューマン・ライツ(human rights)。このライト(right)は「権利」という意味に理解されがちですが、本来は「You are right」、「ありのままのあなたでいいんだよ」という意味です。そういう意味では、人権は「あるがままの自分を認められる権利、傷つけられることのない権利」だといえます。人間は自分の人生を自分で決める権利があります。だれと遊び、何を学び、どういう仕事につき、だれを好きになるか…それを自分の責任で選び取る権利がある。だからこそ人間なのです。

〈人権を守る〉ということ
 そこで次に自分の行動を振り返ってみるのです。わたしたちは普段、人権を守っているつもりでいます。それはだれしもが「自分は差別などしていない」と思っているからにほかなりません。しかし、〈人権を守る〉ということは、〈差別をしない〉ということだけではないはずです。いじめや不登校の例で考えるならば、その問題の原因や責任を当事者の子どもにあるとするのではなく、むしろ子どもたちを取り巻くわたしたち大人や社会の側の問題であるという視点に立った上で、そのはざまでどれほど子どもたちが苦しい立場に立たされているのかということを理解する作業こそが、実は人権を守るということの意味ではないかと思うのです。もちろん子どもの問題だけではなく、同和問題、外国人問題、障害者問題や女性問題など、その当事者がこの社会で住みにくいと感じているならば、ありのままの彼らを受け入れない、認めようとしない社会のシステム、またそれを取り巻くわたしたちの側に問題があるというところに思いを馳せなければなりません。いやいや、わたし自身も住みにくいと感じることがあるはずなのです。ありのままのわたしが受け入れられず、肩ひじ張って、身を固くしているわたしもいるはずです。だからこそ、自分のために、だれもが住みやすい社会を作ることを、自分のこととして真剣に取り組んでいかなければならないのではないでしょうか。

 日常生活の中でわたしたちはともすれば自分本位になり、他人の気持ちや悲しみがそこから欠落してしまいがちになります。そして指摘され初めてそれと気づくことが少なくありません。今回のシリーズを掲載する中で、不登校の子どもを持つお母さん方からの指摘を受け、多くのことに気づかされました。「立場をかえればそういう見方が出来るんだ」と今更ながらの思いがします。しかし、このようなことをひとつひとつこなしていくことが大切なのだと自らを励まし、これからも人権の啓発に取り組んでいきたいと思います。〈気づき〉こそが人権への第一歩、ということを今回の教訓にしてこのシリーズのしめくくりにします。
(人権啓発室)
1998年12月号広報ふじいでら bR55より




 アムネスティの対応も、誠実なものだった。大阪事務所から訳者の篁さんに連絡をとられた。そして、篁さん自身から、つぎのような手紙が届いた。
 「……目を開かれた思いがします。7年前に翻訳した時は、第三世界の子どもたちのことしか視野になく(フォスター(里親)プランなどにもかかわって途上国の子どもたちの置かれている状況に心をいためており)、自国の問題が目に入らなかったのです。でもあのころからすでに、日本の子どもたちに兆候は現れていたはずですから、言い訳にはなりませんよね。26条については、なるべく早いうちに書き直して、できれば差し替えを、少なくとも注釈を付けたいと思います。……可能な限り、26条がこのまま出ることのないように、アムネスティも私も手を尽くすつもいでおります……」
 さらに電話で、「いい26条に作り変えたいので、原案ができたらぜひ目を通して、意見を聞かせてください」と言われた。 また、アムネスティから寄せられた回答書は、次のようなものだった。 



 翻訳については、実はコンテストの応募作品の半分は、原文に忠実な正統的な翻訳であったのですが、英語を母語とする選者が2人おられたにもかかわらず、正統訳は1点も入賞の中に入りませんでした。このことは応募者の方々にも申し訳なく、私たちとしても残念だったのですが、宣言の細部に至るまで、これが絶対的な正解だといえる方はどなたもおられなかった次第です。そのため、入賞作品7つは全部創作的作品になりました。 『わたしの訳 世界人権宣言』(このコンテストの経過のすべてが載っている本)の出版元である明石書店に問い合わせましたところ、最初の発行部数は2000部、再販が1000部で、現在倉庫に490部残っている由。もし更に重版するときには、篁さんの作品の問題の個所を直すことは可能。現在の490部については、訂正の趣旨を記した紙を一枚はさむことができる、ということでした。後の処置に関しては、普通めったにやらないそうで、特別の好意的な対応と当方はうけとめております。 篁さんのお手紙に書かれている26条を共訳しようという申し出は、すばらしいアイデアだと私どもは考えております。もし実現しましたら、ことの経過と作品を掲載してくれるように藤井寺市、アムネスティ日本支部ニュースレターと新聞、雑誌などに申し入れるつもりです。
    1998年11月19日



 私たちは、この3つの返事には驚いた。人権啓発室、アムネスティの人たち、そして篁さんも、こんな反響が来るとは予想外だったろうに、真摯に受け止め、それぞれの立場のなかでできることを十分にしてくださった。藤井寺市の広報にあのような啓発記事が載ったり、26条が書き換えられるなんて、予想を越えたうれしいできごとだった。


第26条の書きなおしについて
 1999年が明け、1月2日に訳者の篁さんから宣言26条の改訳の「たたき台」なるものがFAXされてきた。それを受けて、1月7日にアムネスティ大阪事務所で、篁さんと私たち6人(子ども1人を含む)が集まった。 3時間を越える話し合いの結果、「たたき台」の紙は書きこみと変更で真っ黒になり、新しい26条ができた。
 篁さんは、この翻訳の主旨を、子どもたちにもわかりやすい言葉で、世界人権宣言と人権についてのメッセージを伝えることにおいていた。もちろんそれは、大人に対するアピールでもある。
 話し合いの内容は、教育の意味、学ぶとはどういうことをいうのか、という大きなテーマになった。「読み書き計算」は必要か? いや、自分が必要になれば身につけるもの。世界には、学ぶ機会が与えられず、労働力として不当に搾取される子どもがいるという現実も問題。「わかった」もいいけど「わからないなあ」を大切にしたい。やっぱり「自分が自分でよかった」と思えることが大事。とくに第3項の教育の種類を選ぶ権利については、宣言では、国や地方自治体よりも親の側の選択権が優先するとしているが、いちばんの権利は学ぶ子ども本人にある。これは原文にはないが、ぜひ盛り込みたい。
 こうした内容で、子どもでもわかりやすく、あまり説教っぽくない(篁さんの弁)言葉を捜すのは、とてもむずかしかった。みんなで頭をかかえて、慎重に選んで並べてようやくできた。篁さんが、帰りの新幹線のなかでさらに手直しをして、次のようなものになった。

 この文章から受ける印象は、またさまざまだろう。しかし、以前のものよりはるかに「いい」26条になったと思う。今後もこの新訳を「たたき台」に、いろいろなところで話し合いをされたらいいと思う。
 ちなみに、子どもたちの感想は、「いいんじゃない?」「読みやすくなった。」「感じが変わった。」ということだった。
 今回、藤井寺市役所、アムネスティ大阪事務所、篁さんとそれぞれ話し合ったことは、学校に行かない子をもつ母親の集まりである私たちにとって、子どもたちの人権を守りたいということだけでなく、自分たちは人権や教育についてどう考えているのか、という問いかけにもなった。「正解」が出たわけではないし、これからも、親の会その他で話し合いながら、ずっと考え続けていくだろう。
 それにしても、「学校に行く」という教育の1つの種類を拒否したために(もちろん、拒否しなくても、だが)、「私が私でよかった」と思えなくなるような人格権の侵害は、早くなくなってほしいものだ。




●新訳●
第二十六条
1)
  すべての人は 教育を受ける権利がある。

  じゃあ 教育ってなあに?
  生きていくために
  大切なものを身につけること。

  その人が学びたいと思うことが
  一番の基本。

  読んだり 書いたり 計算したりさえ
  学べない人たちのいる国もあるけれど
  お金や何かの心配もなく みんなが学べるしくみに
  なっていなければ いけないんだ。

  だれでも いつでも どこにいても
  学びたいときに
  学びたいことを
  好きなだけ 学ぶ権利がある。

2)
  「どうして 勉強なんてしなくちゃいけないの!?」って
  考えたことあるでしょう?

  しなくちゃいけないのではないんだね。
  「なんだろう?」と思ったり
  「なぜだろう?」と考えたりして
  わからなかったことが
  「あっそうか!」ってわかるのは
  それだけで とてもうれしい。
  君の うれしい のためにするんだもの。

  「ぼくがぼくでよかったな」と思える
  ひとりひとりの幸せのためにするのが
  一番の正解。

  でも
  君の学んだことが
  たくさんの人のほんとうの幸せに
  世界のほんとうの平和に つながるのなら
  こんなに素敵なことって あるかしら

  大切に使ってね
  君の学ぶ権利。

3)
 学びたいことは 君が決める。

  でも その次に
  「この子にはどんな教育が一番いいかしら」と
  お父さんやお母さんにも
  選ぶ権利がある。



世界人権宣言  −その後-

だれでも いつでも どこにいても
学びたいときに
学びたいことを
好きなだけ 学ぶ権利がある

昨年四月からシリーズで掲載してきました『名訳世界人権宣言』は大きな反響を呼びました。なかでも昨年十二月号で紹介しましたように、第二十六条をめぐってはさまざまに議論されることとなりました。それは不登校の子どもを持つお母さん方が、掲載文中の〈教育を受ける権利〉について述べられた部分に”待った”をかけたのがきっかけとなりました。
 掲載の訳文は、アムネスティ・インターナショナル日本支部が募集した、翻訳コンテストの中で優秀賞を受賞した、埼玉県所沢市の詩人篁久美子(たかむら・くみこ)さんの作品でした。この中では、「小学校六年間 中学校三年間が義務教育−受けなければいけない教育−だ」となっているのですが、子どもには教育を受ける〈権利〉があるのであって、義務教育の〈義務〉は国や保護者にあるはず。この訳では不登校の子どもたちの心を傷つけることになるのではと、人権啓発室にご指摘をいただいたのでした。また同時に、お母さん方はアムネスティ・インターナショナル日本支部にも申し入れをされていました。
 「目を開かされた思いがします。七年前にこれを翻訳した時は、自国の問題が目に入らなかった。二十六条についてはなるべく早い時期に書き直したいと思います。」
という訳者の篁さんの意向を受け、その後お母さん方と篁さん、アムネスティの間で書き換えの作業が進められ、今回新しい第26条の訳が誕生しました。

 1989年(平成元年)、国連では「子どもの権利条約」を採択し、その五年後日本もようやくこれを批准しました。この「条約」は、子どもにも大人と同じように〈幸せにいきる権利〉があるんだ。それを守るため、自分の意見を自由に述べることができるんだといっています。考えてみれば、子どもたちの問題を語るとき、いつも当事者の子どもたちはかやの外であったような気がします。家庭や、学校や、さまざまな暮らしの中で子どもたちの声や、思いをしっかりと反映させる取り組みは、大変な努力と根気のいることです。しかし、そんな営みをひとつひとつ重ね、「子ども優先」の時代を築いていきたいものです。

新訳
<第26条>
(略)
1999年3月号広報ふじいでら bR58より




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